怒りの解消
この記事では、以下のような状況を想定している。
「何かのトピックに対して、Aの意見は間違っている。リスペクトもないし技術的にも利用者ならすぐに分かる間違いを喧伝し、さらに実益を毀損する可能性もあり許せない。 」
このような事例に遭遇したとき、ツイッターが発展している社会では… というブラックジョークはさておき。
このような事例に遭遇したとき、なぜこんなことを述べるのだろうという意見を怒りと共に表現されるのをちらほら見かける。そこから、ゆえにあちらの陣営は敵認定とすというようなスタイルに発展しているのも見かける。
しかし、これはどちらかというと、物事を単純化し過ぎているというか…、単純化にもなっていないが。感情の怒りを解消したい行為であると感じた。
これを否定するわけではないのだが、繰り返し怒りの表現をされたりすると受け手によっては疲れてしまう。逆に同様に感じている人は共感し関係を強固にするかもしれない。表裏一体はあるにせよ、私は前者であることが多い。
また、敵対関係の構図を表明していると更にとっつきにくくなる。先鋭化していると感じるのだろう。
怒りをモチベーションに課題解決につなげる
おまけ: 同じ穴の狢
先に単純化に基づいた敵対関係について述べた。
敵側の主張が科学的・技術的に正しくてもそれに気付かず自分自身が間違いに基づいて主張し喧伝してしまうというパターンも見かけている。
利用者なら反証が簡単に発想されるところから、自分自身はその技術に関して理解がちゃんとできていると飛躍して誤解してしまう。それゆえに堂々と技術的に正しくない理解に基づいて意見を感情的に主張してしまうという様である。
笑い事ではなくて、なまじ分かっているつもりで分かっていないパターンが一番怖いと思う。自分も気をつけたいところ。間違っていたら教えてもらえるような人でありたい。あなた鼻毛出てますよに近いかも。
この記事を書いた背景
タイトルの件をどうして思ったのかと書くと、ちょっと思うことがあることに遭遇したからに他ならない。しかし、それを書いてしまうと述べたいことが薄まってしまうので意図的に書かないことにした。
とはいえ、中々具体例無しだと難しい…。私自身も具体例を書いておかないと忘れちゃいそう。忘れちゃいそうと思っていると読み返したときに思い出すものだ。
ところで、このブログは個人の備忘録であるから、タイトルからずれたことを急に言い始めているのは容赦して欲しい。
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